| カテゴリー | ダメダメ家庭が持っている発想 |
| 配信日 | 04年7月16日 |
| タイトル | 権威主義 |
「子供は親の言うことを黙って聞いていればいいんだ!」 ダメダメ家庭ではレギュラーのセリフといえます。 親の方が子供よりエライんだから、子供は大人である親の言うことに従え! そのような物言いも合理的な理由が全然ないわけではありませんよね? 大人は子供より多くの人間と接しており、社会をより知っている。これは確かでしょう。 だからといって、人とのやり取りにおいて、そのような問答無用のスタイルがいいわけありませんよね? 子供は子供なりの視点があるでしょうから、大人がそれを取り入れることに何かデメリットがあるの?子供とちゃんと会話して、いいものは取り入れればいいじゃないの? ところがダメダメ家庭では子供の言うことなど一顧だにしない。まあ、政治とか科学技術のような分野ですと、やっぱり大人ならではの経験も有用でしょう。しかし、年齢に関係ない分野もありますよね?19世紀のフランスの詩人アルテュール・ランボーのように10代の頃に作った詩が「若書き」だからといって他の詩人よりも劣るというものではないでしょ? しかし、10代のランボーには神から与えられた天分はありましたが、ないものがあった。それは地上の権威です。権威を尊重する人間には、作者が10代の若造というだけで考慮に値しないものなんですね。 このように権威を尊重する人間は人とのやり取りにおいては「相手が何を言うのか」は問題ではないわけです。「誰が言っているのか?」それが重要なんですね。そのことを言っている人間が「権威のある人」だったら、とにもかくにも了承する。ところが権威のない人がいくら語っても相手にしない。 一種の人間のブランド化の発想です。ブランドのある人間であればその言葉もありがたがる。ブランドのない人間の言葉であれば、一顧だにしない。問題は人間の序列だ! 確かに実際問題として人間の知性もすべての人が平等というわけではないでしょう。実際に話してみて「この人ちょっとヘン!」と思ってしまうような言葉もありますよね?しかし、ブランド化に浸りきっている権威主義の人間はそもそも人と会話する意欲がないわけです。 だって、言葉は重要ではないんですから・・・「言葉の発し手が誰か?」が、問題なんですからね。 自分自身で言葉を聞き、判断する意欲があれば、誰がその言葉を発したか?なんて二の次でしょ?納得できる言葉であれば、自分で判断して取り入れる。納得できなければ、それまで・・・そんな感じの対応で問題ありませんよね?自分自身で会話ができれば、言葉発し手が誰かなんて問題ではないわけです。 しかし、権威主義の人間は言葉による会話など眼中にない。 よくおサルさんの序列確認のシステムが紹介されますよね?相手のおサルの上に乗って「自分が相手より序列が上である」ことを確認させる・・・ 権威主義の人間が行う「やり取り」も、このようなおサルさんの序列確認の儀式に近いものです。 序列が上の人間の言うことはとにもかくにも従う。自分が上であればとにもかくにも従わせる。「やり取り」の結果に確認されるのはお互いの序列。 だからそのような権威主義者にとって「やり取り」において重要なのは、序列なんですね。 だから「子供は親のいうことを黙って聞いていればいいんだ!」との言葉がダメダメ家庭で頻発することになる。まあ、確かに家庭内の序列でいうと親の方が子供より上でしょう。だからといって子供の意見を聞かない理由にはなりませんよね? 確かに目上の人を尊重するといったマナーに類することもあるでしょう。だからといって目上の人の言葉がすべて正しいなんてものではありませんよね?だからこそお互いによる会話が重要でしょ?しかし、そのような強圧的な問答無用のやりとりは、本音の議論にならない分だけ、逆に社会的な序列確認には大変に有効なんですね。 このような言葉よりも序列が重要という権威主義の人は、態度が豹変することがあります。相手が「実は自分より目下だ」とわかった場合に、急に居丈高になったり、逆のケースですと、相手が目下だと思っていたのに実は目上だとわかってオロオロしたり、逆上したり・・・ よくいますよね?そのような人・・・ 大体そのような権威主義の人間は「やりとり」はコミュニケーションの手段ではなく、おサルさんのように序列確認の手段なので、想定外の序列の人に出会うと混乱しちゃうんですね。 まあ、北朝鮮にいるアメリカ人の方の振る舞いが異常に「威張っている」のに驚かれた方もいらっしゃるでしょう。何でも朝鮮半島では威張っていないと安く見られてしまうとのこと。このような発想は典型的な権威主義の序列意識ですね。「オレはオマエたちよりもエライんだぞ!」というわけです。序列が重要であって、言葉が重要ではない。 このような序列のみを重要視する権威主義の人間はどの分野に多いでしょうか? まあ、オヤジの巣窟といえる政界?体育会系のスポーツ分野?勿論そうですが、政界やスポーツ界はそうでもない部分も多少残っているんです。だって政治家は落選すればオシマイですし、スポーツでもビリになってしまえば、いくらその人に権威があってもダメなんですね。逆に権威がなくても一番になればとやかく言われない。どんなに権威があっても「結果」には従わざるを得ないわけ。 ですからこのような権威主義の巣窟と化しているのは意外と「知的」と評される分野です。 公務員とか、学界とか芸術の分野とかです。 これらの分野は「評価」を身内同士で行うことになる。だからこそグループの権威者には逆らえないんですね。現在プロ野球の中日ドラゴンズの監督の落合さんのように、「自分流にやっていても結果を出せば文句ないだろ!」とは言えない。だって、学界とか芸術界は結果というものを出しにくい分野ですし、結果を評価するのは身内だけでしょ? だからどうしてもこの手の分野では権威主義がはびこることとなる。そして優秀な人間はそれを嫌って外に出てしまうので、レベルの低い人間だけがそのグループに残ることになり、ますます権威だけが重要という世界になってしまうわけ。 現在海外を中心に活動している日本人のオーケストラの指揮者の小澤征爾さんのように、日本の音楽界から追放されてしまった事件のような例が数多く起こったりするんですね。 実際クラシック音楽の世界では権威が重視されるようです。 私が知人に誘われてとあるクラシック音楽の愛好家のサークルに行ったときのこと。 「この曲のあの演奏家による録音は、あの有名な評論家の○○先生が絶賛している!」 「こちらの演奏家による録音は、△△先生が勧めている。」 「この曲のすばらしさは、◇◇先生が語っている。」 と、こんな調子でした。 私は目が点になってしまいました。音楽を好きな人間が集まって、好きな音楽を語るのはいいとして、何故にそんな得体の知れない評論家の言葉を引用するのかな?コイツらは実際に自分の耳で音楽を聞いたのかな?聞いて本人はどう思ったのかしら?面白かったの?つまらなかったの?アンタら何が楽しいの?こんなことしていて・・・ 私が「この曲のこの部分って、なかなかいいよねぇ・・・」とか言うと「それについてどの本に書いてあるの?」「誰が言っているの?」と質問を受けてしまいました。 いやぁ・・シュールな世界だなぁ・・・と呆気に取られたわけです。 しかし、「どんな言葉であるかが重要ではなく、誰が語ったのかが重要」という信条を持っていれば理解できない話ではありません。 まあ、音楽の楽しみ方は人それぞれでしょうから、いいんでしょうが・・・ しかし、そのような権威を愛好する人が家庭を持ってしまったらどうなるでしょうか? だって、そもそも子供という存在は、そのような権威からは最も遠い存在でしょ?子供に対して「権威ある◎◎先生がこうおっしゃっているから、オマエもこうしなくちゃダメだ!」といっても納得してくれるの?子供はそんな権威とは関係ありませんものね。 しかし、権威主義者はそんな「客観的?」権威で家庭を統治しようとするんですね。 実際問題として私がビックリしたことがあります。私のメールマガジンについて「もし、このメールマガジンの作者が、小学生だったら文章も考慮するに足らないし、権威ある人の文章だったら説得力がある。」そうおっしゃった方がいらっしゃいました。 しかし、このメールマガジンの基本的内容は「家庭内で子供を育てるに当たっての注意点」なんですから、むしろ作者が小学生だった方がいいことでしょ?「子供のナマの声」を聞かずにどうするの?「子供の幸せ」について考えるのに、子供本人の意見は価値がないの? 私はさすがに小学生ではありませんが、家庭内で子育ての問題について考える文章だったら、むしろ作者が小学生のような子供であることの方が価値が高いでしょ? しかし、権威主義者は子供の言葉など聞く耳も持たない。だって子供には権威がないわけですからね。 自分のスグ横にいる自分の子供の問題を、子供と直接話をすることなく、社会の権威者の見解を強引に当てはめようとする。「子供とはこのようなものだ!有名な人がおっしゃっているぞ!」 そのような「子供とはそういうものだ!」と言われても実際の子供は「そうなる」ものでもありませんよね? しかし、権威を愛するダメダメ家庭では自分の子供の問題を、自分の家庭のとは無関係の権威者の意見を参考にする。子供の話を聞かずに・・・ 子供が何を言っても、「子供は親のいうことを黙って聞いていればいいんだ!」で問答無用なんですね。 おまけに社会システムでも同じですよね? 子供の問題が起こったりすると、どこかの権威者さんがもっともらしいことを言っている。しかし子供の問題なんだから、まずもって子供に聞くのがスジでしょ?よりにもよって権威主義の巣窟の公務員が主催し、よりにもよって学界のお偉方が説教をぶつ会議で得られた「正論」が、問題の解決に役に立つわけがありませんよね? 子供の問題が起こったら、まずは子供自身が今どんなことを考え、困っているのか?聞いてみることが必要でしょ?しかし、権威主義の人はそんなことはしない。子供に対して権威を持って「命の大切さ」を上の立場から教えれば事足りると思っているんですね。このような「正論」がまかり通る状態では、問題は深刻化するに決まっていますよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中に言及した19世紀フランスの詩人のアルテュール・ランボーですが・・・ 映画「太陽と月に背いて」で、レオナルド・デカプリオが演じましたので、皆さん覚えていらっしゃるでしょう。 らんぼうというと、私のメールマガジンの文章や内容がらんぼうというクレームがたまに寄せられますが・・・まあ、ランボーの視点は因習的なものではなく、ある意味子供の視点のような新鮮な視点で、世の中の教条的な発想を挑発した面があるのは事実。 それが読者にはらんぼうに写るのは当然です。ですから私の文章がらんぼうという批判は・・・むしろ誇りをもって享受したいと思っています。 |
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