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ダメダメ家庭出身者の状況
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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の状況
配信日 08年6月18日
タイトル 体験の断片化

このメールマガジンで度々、フランスの作家マルグリット・デュラスが言う「面白くない本」の定義を取り上げたりしています。
何回も引用しておりますが、彼女が言う面白くない本はこんなもの。

『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』

しかし、本というものは文章があるわけだから、作者があるのは当たり前。
「真の作者がない」って、どういうこと?
文章が何も書いてない真っ白な本なの?
それだったら、ホントに面白くないよね?

しかし、デュラスが言う「真の作者がない」とは、文字なり文章がないこととは違っています。
文章の書き手の存在感がない文章と言えるでしょうか?書き手の存在感というか、実体感というか、あるいは、よく言う言い方をすると、顔が見えないなんて言い方もありますよね?

そんな人の文章は、あるいは、文章でなくても口頭での発言においても、その発言の内容が相互につながっていないものです。

たとえば、ある時に本を読んだ・・・その本を読んで、こんな感想を持った・・・
それはそれでいいでしょう。
そして、次に別の本を読んだ・・・そうしたら、こんな感想を持った・・・
本を読んだり、映画を見たり、あるいは、誰かとの会話においても、感想を持ったりしますよね?
ちゃんとした人間なら、それぞれの感想が、自分という存在の中で、まとまることになる。

最初の本では、このようなことが判ったけど、今回は、こんな面がより明確になった。ただ、この面は疑問として残ったので、次にはこんな本を読んで調べて見たいと思っている。
そのように、1つ1つの体験が、自分自身でまとまってくるでしょ?そしてその中から今後の方向性が自分にも見えてくることになる。

あるいは、何か事件があった際には、前回の事件では、あのような問題点が見えてきたけど、今回の事件では、コッチの面のファクターが大きかった。いずれにせよ、大元としては、○○の問題が原因となっている。今後はもっとその面に注意して行きたい。
そんな感じで、多くの問題も、自分自身の中でまとまってくるでしょ?

しかし、ダメダメ人間は、自分自身から逃避している。
多くの体験が、自分の内面において、蓄積されることはないわけ。だって、その自分の内面そのものから逃避しているんですからね。体験が積み重なる、その土壌としての自己がないわけ。

そんな人が語ったり、文章にしたものは、実に断片化されているんですね。
断片化といっても1つ1つが文章になっていないという意味ではありません。1つ1つの文章が、相互につながっていない状態に陥っていることです。

過去にはあんなことを言っていたけど、今回は、以前言っていたことをまったく無視して、こんなことを言っている・・・
そんな状態になってしまうわけ。
たまにあったりするでしょ?色々と文章が並んでいるけど、どうも、相互の文章がつながっていない・・・1つの文章の中での流れができていないというより、一つ一つの文章が書き手の精神を土壌としてのつながりを持っていない・・・そんなパターンって、あったりしますよね?

過去の体験が、自分の身になっていないわけ。だからこそ、1つ1つの体験がそれぞれ、また1から味わうことになってしまう。
過去や現在の体験を踏まえて、次の体験を考えることはしないんですね。

多くの体験が、自分の身になる前に、肝心の自分自身は、サッサと逃避してしまう。これでは、まさに『真の作者がない』状態になってしまうでしょ?
そんな人は、体験が自分の内面に降りてくる前に、「て・き・と・う」に感想をまとめて、文章化してしまうわけ。

このようなパターンに近いケースは、以前には、「連続発信のメール」とか「クイック・レスポンス」というお題で配信しております。ダメダメな人とのメールのやり取りでは、厳しいことを言われた場合には、些細な細部に反応して、そんな些細な面については、即座に返事を書くわけですが、「相手はこの文章全体で何を言っているのか?」ということを考えないわけ。他者の表現なり意見に接した際に、実に手早く「自分はこう考える」とまとめてしまい、それ以上考えることから逃避してしまうわけ。

自分で考えることから逃避しているんだから、その体験は、「その文章を読んだ」という物理的な体験になっても、精神的な体験にはならない。だから、どうしても体験の相互のつながりはない状態。

様々な事件なり様々な本についての見解があっても、統一した「まなざし」は存在しない。考えることから逃避しているので、考える時間をつぶすためにも、次々と新しい本なり、事件に言及するようになってしまう。

そんな人は、それぞれの見解は一応は筋道が通っていても、多くの文章の間をつなぐような筋道はないわけ。
多くの体験が断片化されている状態。それは、結局のところ、その人本人が空白ということなんですね。

単にアタマが悪いということや、記憶力がないと言うことなら笑って済む話。
しかし、自己逃避に基づく体験の断片化は、自己逃避のために、スグに逆上するような傾向を持つもの。だから大変に危険な存在といえます。
もともと自己逃避というか「我を捨てている」んだから、その行動としての「我を忘れる」状態になりやすいわけ。

そんな逆上人間の相手をすることになったら、厄介ですよ。
そもそも自己逃避人間は、他者を犯人認定する傾向も持っているもの。
しかし、そんな人は、逆上する前にも、自己逃避に基づく、多くの習性を見せているもの。
語る内容が、相互につながっていなくて、断片化されている・・・そんな面があれば、自己逃避であるものなんですよ。


(終了)
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発信後記

この手の話は、チョット難しいかも知れませんネ。
ちなみに、本文において最初に言及したフランスの作家のマルグリット・デュラスですが、以前に話題になった映画「ラ・マン(愛人)」の原作者だというと、「ああ!あの人か?!」と思い出す人もいらっしゃるでしょう。
あの「ラ・マン(愛人)」という作品は、何も援助交際の話ではないんですが、一般人がそんな感じで理解してしまうのも、まあ、しょうがない。つぅーかぁ・・・デュラス『研究者』による「解説」においても、それに毛が生えた程度のようでしたし・・・
だからこそ研究者どまりであって、真の作者にはなれないんですよ。

あと、以前にも書きましたが、他者の文章を読んでいて、自分が書いた文章と同じ表現が出てくると、「あれれ?!」と思ってしまいます。今回の文章で書いた「自己逃避のダメダメ人間は、自分の体験が積み重らない。」ということは、同じことが、今読んでいる本にも書いてありました。ということで、今回の配信となった次第です。このメールマガジンの文章そのものは、もっと以前の半年前には出来上がっていたんですが、まあ、同じようなことを見ている人はいるわけです。

結局、理解というものは、同じものが見えているもの同士でないと、不可能なもの。
今回の文章だって、皆さんが、そんな事態に直面したら、思い出していただければ結構です。